ミュージカル
音が出る——それだけで生まれたジャンルです。1927年10月の『ジャズ・シンガー』は実はほとんどサイレントで、歌と少しの台詞だけが同期した「パートトーキー」でした。それでも十分でした。2年後の『ブロードウェイ・メロディー』は、トーキーとして最初の、そしてミュージカルとして最初のアカデミー作品賞になります。そして移行期そのものが、のちに最高のミュージカルの題材になりました。『雨に唄えば』はサイレントからトーキーへの混乱を歌と雨で描いて、2022年のサイト・アンド・サウンド批評家投票で10位、AFIのミュージカル部門では1位に置かれています。技術がドアを開け、ジャンルが生まれ、そのドタバタ自体が名作になる——技術の線のいちばんきれいな見本です。
ただ『雨に唄えば』の評価は、最初からこうだったわけではありません。公開時は好評でしたが、興行はそこそこ止まりでした。いまの位置に上がってきたのは、ずっとあとです。この地図の別の場所に「遅れて届いた」という系譜があります。キートンも、アルタミラの壁画も、アフ・クリントもそうでした。ここにもう一本、加わります。
型を作った人は、大きく二人います。バズビー・バークレーは一九三三年の『四十二番街』とその年の『ゴールド・ディガーズ』で、真上から撮る万華鏡のような群舞を確立しました。人が図形になる撮り方です。もう一方のフレッド・アステアは、逆のことをしました。踊りを切らず、全身を画面に入れて撮る。人が図形にならない撮り方です。ジンジャー・ロジャースとは十本組み、うち九本がRKOでした。この二つが、その後のミュージカルの撮り方の二つの源になります。MGMではアーサー・フリードの一団が五十本ほど作り、そこから『巴里のアメリカ人』と『雨に唄えば』が出ました。
一九六〇年代に入ると、このジャンルは急に力を失います。理由としてよく挙げられるのは三つです。ロックンロールが来て、音楽の世代が割れたこと。演技のほうが写実に寄ったこと。そして『サウンド・オブ・ミュージック』の大当たりを見た撮影所が、同じような大作を次々に作って、次々に外したことです。
それでも消えませんでした。一九六四年、ジャック・ドゥミが『シェルブールの雨傘』を作ります。台詞が全部歌で進む映画で、カンヌのパルムドールを獲りました。そして半世紀後、ダミアン・チャゼルがその映画を二百回以上観たと語り、『ラ・ラ・ランド』を撮ります。チャゼルが名前を挙げたのは、ドゥミだけではありません。ミネリの夢のバレエ、バークレー式の群舞、ジーン・ケリー、アステアとロジャース。撮影中に共演作をキャストに見せもしたそうです。この節から現代へ伸びている線は、そういう言葉でできています。