活動写真
装置は買ってくるものでした。1896年11月、神戸でキネトスコープの公開が始まり、翌1897年2月15日には稲畑勝太郎が大阪の南地演舞場でシネマトグラフの有料興行をひらきます。3月には東京の神田錦輝館でヴァイタスコープ。おもしろいのは、この「最初」がひとつに決まらないことです。大阪にも神戸にも京都にも「日本映画発祥の地」の碑が立っていて、基準の取り方でどれも正しい。この地図はいろいろな帯で「起点は諸説あります」と書いてきましたが、ここではその諸説が、街に石になって立っています(ちなみに記念日の「映画の日」12月1日は、11月25日をキリのいい日に繰り上げたものだそうです)。買ってきた装置に、日本は自分の持ち物を足しました。弁士です。無声映画のかたわらに立って、筋を語り、声色を使い、間を取る。語りが独自の芸にまで育ったのは日本と、当時日本の統治下にあった朝鮮半島と、日本の興行者が最初に持ち込んだタイくらいだと言われます。つまりほぼ日本発の現象でした。もとになったものは、たくさんあります。人形浄瑠璃は語る人と動く人形が分かれていましたし、歌舞伎には出語りがあり、写し絵やのぞきからくりの口上もありました。映画が来る前から、この国には「絵と声が別々にいる」見せ物の作法があったのです。人気弁士は俳優より有名で、給料もずいぶん良かったと言われます(金額の裏づけは取れませんでした)。その弁士たちは、音が出るようになった映画に職を奪われます。1932年4月18日、浅草の松竹系の映画館でトーキー化にともなう解雇に反対するストライキが起きました。その年、常設映画館の争議は全国で111件。昭和恐慌のさなかで、会社側が人員整理を押し通し、労働側は敗れました。なお、この帯にはもうひとつ、震災の話があります。1923年9月1日の関東大震災で松竹蒲田撮影所が壊れ、9日後には京都・下加茂への移転が決まりました。日活も東京の現代劇部を京都へ移します。「京都は時代劇、東京は現代劇」という日本映画の長い分業は、誰かが設計したのではなく、地面が揺れたあとに自然とそうなったものでした。