Jホラー
一九九八年の『リング』が画期でした。前史はビデオにあります。一九九一年から鶴田法男が撮っていた実話怪談のオリジナルビデオで、日常のすぐ隣に幽霊が入り込むという作り方が育っていました。中田秀夫は、日本のホラーは日常に幽霊が入り込むのだ、と説明しています。観客が家に帰って、エレベーターや風呂の中でもまだ怖さが続く。直接は見せない。白装束に長い黒髪で足を見せない幽霊の姿は、『東海道四谷怪談』からの系譜です。ここで、この地図が何度も書いてきた話がまた出てきます。「Jホラー」という呼び名は、日本で生まれていません。英語の辞書がいちばん古い用例として挙げているのは、二〇〇二年のアメリカの批評誌です。日本側が「Jホラーシアター」という看板を掲げるのは二〇〇四年からで、順番としては後です。ノワールも、ヌーヴェルヴァーグも、ブロックバスターも、ドキュメンタリーも、時代劇もそうでした。これで七度目です。そして水路は往復しました。二〇〇二年の『ザ・リング』が世界で二億五千万ドル近くを稼ぎ、二〇〇四年には『呪怨』が英語版になります。このとき監督したのは清水崇、原作の監督その人でした。サム・ライミが本人を指名したと伝わります。自分の映画を、自分の手で、別の言語で撮り直した。この地図でここだけの出来事です。
この節は、距離の落差そのものが形になっています。『呪怨』は二〇〇〇年に東映のオリジナルビデオとして出ました。撮影は実質九日間で、当時は振るわず、口コミで評判になった作品です。それが二〇〇二年に劇場版になり、二〇〇四年には北米で一億一千万ドルを稼ぎました。土壌はビデオでした。一九八九年に東映がVシネマの市場を立ち上げ、月に一本、やがて二本という速さで作られるようになります。予算も日数も足りないなかで、見せずに怖がらせる作り方が育ちました。足りないことが、方法になった。この地図の別の場所で何度も書いてきた話です。
もうひとつ。この節から一人だけ、別の方向へ抜けていった人がいます。黒沢清です。二〇〇八年に『トウキョウソナタ』でカンヌのある視点部門の審査員賞、二〇一五年に『岸辺の旅』で同じ部門の監督賞、二〇二〇年に『スパイの妻』でヴェネチアの銀獅子賞。中田秀夫と清水崇がジャンルの中で評価された一方で、黒沢清はジャンルの外側にも席を持ちました。そして冒頭のアリ・アスターが「史上最高の映画だと主張できる」と言ったのも、この人の『CURE』です。
二〇一〇年代以降どうなったかは、正直に書くと、意見が割れています。決まった形から抜け出せずに勢いを失った、という見方と、白石晃士のフェイクドキュメンタリーや『犬鳴村』のように形を変えて続いている、という見方の両方があります。この地図はどちらかに丸めません。割れていること自体を、そのまま置いておきます。