日本の喜劇
日本の映画の笑いは、まず撮影所のシリーズとして量産されました。森繁久彌の「社長シリーズ」と「駅前シリーズ」が一九五〇年代の終わりから続き、クレージーキャッツが続きます。同じ顔ぶれが同じ型で毎年帰ってくる、という作り方です。社長シリーズは三十三作、駅前シリーズは二十四作。同じ型が十四年くり返されました。
一九六九年に始まった『男はつらいよ』は、それを極端まで押し進めます。ただ、この始まり方が面白い。もとはテレビでした。一九六八年から二十六話。そして最終回で、寅次郎は死にます。奄美大島へハブを捕りに行って、噛まれて。局に抗議の電話が殺到しました。それが映画化の直接のきっかけです。当時、映画の側はテレビを格下に見ていて、松竹は難色を示したと伝わります。山田洋次たちが説得して実現しました。テレビで殺された人物が、観客の抗議で映画に生き返った。そこから二十七年、渥美清が亡くなるまでに四十八作です。作品数では世界最長の映画シリーズとしてギネスに認定されました。ただし年数では〇〇七のほうが長い、という但し書きがつきます。この地図も最初は「同じ俳優による最長」とだけ書いていて、そこは不正確でした。山田洋次はこう言っています。僕の人生で、渥美さんという天才的な役者と巡りあえたことはものすごい幸運でした、と。一九八四年に伊丹十三が『お葬式』で監督になり、翌年の『タンポポ』でその笑いを世界に届けます。そして一九九七年、劇団の人が入ってきました。三谷幸喜です。ここに、この地図でいちばん意外な線が一本あります。三谷は自分が何に刺激を受けたかを語っていて、それがビリー・ワイルダーでした。ワイルダーは、この地図の別の帯で『深夜の告白』を撮っている人です。フィルムノワールの帯にいる人が、日本の一九九〇年代の喜劇に繋がっている。同じ手が、暗い保険金殺人の話と、笑える会話劇の両方を撮っていたからです。三谷はニール・サイモンの『おかしな二人』についても、あれを観ていなかったらたぶん演劇を始めなかった、と言っています。もう一本、密室の群像劇という型も渡っています。『十二人の怒れる男』が一九五七年、『12人の優しい日本人』が一九九一年。三十四年かけて、陪審員の部屋がそのまま引っ越してきました。そしてこの帯のいちばん新しいところに、『カメラを止めるな!』が立っています。俳優のワークショップから生まれた自主映画で、製作費は三百二十五万円、興行収入は三十一億円になりました。スティーヴン・キングが観て、ゾンビ映画のあらゆる型を見尽くしたと思っているなら間違いだ、とても楽しかった、と書いています。
この帯を上から下まで眺めると、笑いを作る場所そのものが動いているのが分かります。撮影所が同じ顔ぶれで量産していた時代があり、劇団の人が入ってきた時代があり、いまはワークショップから出てきます。伊丹十三の入り方も変わっていました。俳優としてもエッセイストとしても名前のあった人が、五十一歳ではじめて監督になり、一作目で賞をさらっています。『マルサの女』のときには国税庁が全面的に協力し、「マルサ」という言葉が世の中に広まりました。ひとつ書けなかったことがあります。伊丹が何に影響を受けたのかを、本人の言葉で確かめられませんでした。ゴダールやブニュエル、一九三〇年代のハリウッド映画との関係を論じた文章はありますが、どれも第三者のものです。だからこの節から、その線は引いていません。