映画祭の回路
世界で最初の国際映画祭は、1932年のヴェネチアです。始めたのはムッソリーニ政権の元財務相で、1934年からの最高賞の名前は「ムッソリーニ杯」でした。1938年の大会ではヒトラーの圧力がかかり、本命と見られていた作品が退けられて、ナチスの記録映画とイタリア映画が賞を分け合います。この一件への反発から、フランスが対抗する映画祭を構想しました。それがカンヌです。第1回は1939年9月に開かれるはずでしたが、開幕の数日前に戦争が始まって流れ、実現したのは1946年でした。ベルリンは1951年、米軍の占領当局の映画担当官が提案し、その資金で分断された西ベルリンに開かれます。「自由世界のショーウィンドウ」と呼ばれました。三つとも、始まりの理由は美学ではなく政治です。いま私たちは映画祭を「才能を見つける中立の装置」のように思っていますが、装置のほうが先に政治から生まれて、あとから才能を運びはじめたのでした。しかも、運ばれ方はいつも紙一重です。1951年に金獅子を獲った『羅生門』は、日本の会社のほうが乗り気ではありませんでした。1956年にカンヌで賞を得た『大地のうた』は、休日の深夜という枠に置かれて審査員の多くに見逃され、批評家アンドレ・バザンや監督リンゼイ・アンダーソンが掛け合って再上映が実現しています。1960年の『情事』は初日に大ブーイングで退席者が続出し、翌日に配られた著名な映画人たちの連名の声明で評価がひっくり返りました。回路はあっても、通るかどうかは誰かの手が押しています。この回路を通って、1964年にブラジルのシネマ・ノーヴォが、1966年にはサハラ以南のアフリカから初めての長編が、世界に届きました。