喜劇の黄金時代
1914年、キーストン社の撮影中に「コメディの扮装をしてこい」と急に言われたチャップリンは、衣装部屋にあるもので即席に作りました。大きすぎるズボン、きつい上着、大きな靴、ステッキ、山高帽。放浪紳士の誕生です。ところで、ズボンはアーバックルから、上着はエイヴリーから、靴はスターリングから借りた——という有名な話があります。これは会社の広報が宣伝用に流したもので、事実ではないと公式に記されています。有名な逸話ほど、たいてい誰かが作っています。もうひとりの話は、もっと長くかかりました。バスター・キートンの『大列車追跡』(1926)は、いま多くの人が彼の最高作と呼びます。けれど公開されたときは、興行で失敗しました。七十五万ドルかけて、世界で百万ドルほど。批評も冷たく、ある批評家は「戦場での死を笑いの種にするな」と書いています。この失敗のあと、彼は出資者への責任から自分で作る自由を手放し、大きなスタジオの拘束的な契約に入りました。「あれが自分のキャリアで最大の失敗だった」と本人が語っています。1933年に解雇され、酒に沈みました。評価がひっくり返るのは戦後です。1949年ごろから見直され、いまではアメリカ映画の十八位、世界の映画の三十五位あたりに置かれています。そして本人は1963年に、こう言いました——あの作品が、自分の全部の作品の中で、いちばん誇りに思っている、と。この地図には「遅れて届いた」話がいくつもありますが、これは本人が生きているうちに受け取れた版です。ふたりが一緒に画面に出たのは、生涯で一度だけでした。1952年の『ライムライト』です。チャップリンはその役をキートンのために書いてはいませんでした。彼が困っていると知って、出したのだそうです。