黄金期
1951年9月、ヴェネチア国際映画祭で『羅生門』が金獅子を獲りました。出品を推したのは日本側ではありません。イタリフィルム社のジュリアナ・ストラミジョリが日本滞在中にこの映画を見出し、強く推薦しました。大映は「日本的すぎて西洋には受けない」と消極的だったと伝わります。世界が日本映画を発見した日は、日本が自分で選んだ日ではなかった——ここから水路が開きます。翌年には米アカデミー名誉賞。溝口健二はヴェネチアで3年続けて賞を獲り(『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』。53年は金獅子該当作なしの年の銀獅子でした)、『地獄門』はカンヌのグランプリを持ち帰ります。パリのカイエ・デュ・シネマの若い批評家たちは黒澤より溝口を上に置き、ゴダールは1966年、京都の溝口の墓に献花に訪れました。小津安二郎の『東京物語』は、2012年の英サイト・アンド・サウンド誌の監督投票で世界1位に選ばれています——公開から59年後に。そして水路は一方通行ではありません。黒澤明は自伝『蝦蟇の油』でジョン・フォードへの敬愛を書き、ロンドンの撮影現場を訪ね、以後サングラスにウールキャップというフォード風の出で立ちで現場に立ったと伝わります。西部劇が育てた監督の映画を、西部劇が学び直した——『用心棒』は無許可で『荒野の用心棒』に翻案され、東宝の抗議は法廷の手前の和解で決着しました。興行収入の一定割合を受け取る条件で、「パクられて得をした巨匠」になったと言われています。『七人の侍』と『荒野の七人』の関係はもっと長い物語で、250ドルの権利売却に始まり、1978年に東京地裁が違法と認め、1993年の和解まで18年かかりました。もうひとつ、俳優の水路も。三船敏郎は後年、ルーカスからオビ゠ワン・ケノービ役を直接オファーされて断ったと、娘の美佳さんが証言しています。「羅生門効果」という言葉は2008年、オックスフォード英語辞典に収録されました。物語の語り方そのものに、日本映画の名前がついています。